■大院君の政事


1863年 12月、哲宗の死没後、趙(チョ)大妃はイ・ハウンの次男命福(ミョンボク)を世子として翼宗の後を継がせ、自らが摂政の座に就いた。
そして興宣君イ・ハウンに興宣大院君の称号を与え、摂政の大権を彼に委任した。
こうして興宣大院君は高宗に代わって後の 10年間、権力を握り自分の意のままに政事を操るようになる。

世間では出世した後の彼を「大院位大監」と呼び, 近年は「興宣大院君」と呼ぶ。
権力の最盛期には「大院位大監の言付け」だと言えば 「飛ぶ鳥をも落とす」と言われる程で、彼の一言で「朝鮮全土の山川草木が震える」と言われた。



また、興宣君には秀でた才能が一つあった。
それは蘭の写生の腕前だった。 彼が描いた蘭の絵画を、彼の号の「石坡」を取った「石坡蘭」と呼ばれる。
石坡蘭は閔泳翊の蘭と共に、その時代の蘭画の双壁を成す。

摂政の権限を委任された興宣大院君は最初に、安東金氏の政治勢力を駆逐して、衰弱した王権を取り戻し、朝鮮に迫る外国の勢力に立ち向かうための果敢な改革政策を推進する。

彼は、党色と門閥を越えて人材を平等に登用し、党争の本拠地となった書院を撤廃する一方、苛斂誅求が日常茶飯事で走狗と転落した役人を処罰し、両班と豪族が免除されていた租税を徹底的に調査して、国家財政をあてた。